2025年夏、東京その2:上智大学の先輩方、同級生と
- 澤 明
- 8月19日
- 読了時間: 4分
更新日:8月19日
京都大学の仕事は、2011年より熱意持って取り組んでおります。嬉しいことに、最近では京都大学での知人、友人が増えて本当にありがたいことです。日本の拠点は前述のように今も東京なので、母校東京大学に関わるものが今でも日本の活動では一番多くなるのですが、100%のエフォートを持つジョンズホプキンス大学だけでなく、京都、東京、という3つの大学に拠り所を持てる私はとても幸せだな、と思っています。でも本当は3つじゃないのですよ。私にとって人生の道筋を決める大事なことを教えてくれた大学があるのです。この4つ目こそが、ある意味私にとって最も大事な大学なのかもしれません。何度かかけてこのお話をすることになるでしょうが、今回はその最初のご紹介をします。
後の機会に、ゆっくり触れることがあると思いますが、私は高校の時に人生の方向性がわからなくなって大変困っていたことがありました。そうした僕のレールから外れた人生ですら受容くださり卒業の機会を与えてくれた高校にはこれ以上の感謝はありません。私の高校には本当のメンターと呼べる人がたくさんおり、僕の人生の基礎を築いてくれたのはこの学校です。しかし、卒業できたからといって、大学に入るのは容易ではありません。おそらく人生で最もラッキーなことがあったとしたなら、この状況である大学になんとか合格できたことです。家族が法律家一家でしたので、法学部に行くのが良いだろうというのが家族の意向でした。でも多くの法学部は何かしらいかめしく、どうも気持ちがのりませんでした。その当時はウェブページもなかったが大学入学案内の冊子がありましたが、「ああ、ここに行ってみたいな、ここで勉強したいな」と思えるような美しい冊子の大学がありました。それが「上智大学」でした。桃色、黄色、緑色は桜、菜の花、そして木々だったのかな?四谷の堤のところのスケッチが表紙でした。どうしても行きたい、と思いました。この入学試験の時にとても緊張していました。試験はあまり良くできなかったのでダメだったろうな、と思ったが、嬉しいことに合格でした。ああ、強く願えば時にはかなうことがあるのだ、と本当に喜びを持ったのを今でも覚えております。学籍番号だって今もしっかり記憶していますよ。833641です。
この大学で2つのことを学びました。最終的には東大の医学部で競技スキーをしましたが、最初にスキーをやろうとしたのはこの上智大学でした。入学のオリエンテーションのあと、講堂から放たれた新入生が最初に浴びるシャワーは上級生の方々のクラブやサークルの勧誘でした。あまりに皆さん魅力に溢れる方々ばかりで「ああ、これが大学なのだ」と思いました。バブルが始まる少し前でしたが、日本の大学は毎日がフェスティバルのようでした。楽しいな、と。もう時代ハズレかもしれませんが、新入生歓迎は東京タワーの近くのボーリング場でした。場所柄その後は六本木に行ったのかもしれません。初電の小田急線に乗って家に帰ったことがしばしばだったのだけ覚えています。部室に行けば、朝から晩まで「う、ふ、ふ、ふ」という歌が流れていた時代(若い皆さん、簡単に検索できますよ)。でも楽しさは人間性あふれる規範に支えられたもので、先輩方のその成熟したバランスを、敬意を持って眺めていました。1つ目の学びです。もう1つの学びは、大学における学術、そのロジックの組み立て方ということです。この2つを知った時、医学への興味は確実なものとなり、また最終的に受験合格できた東大の入学試験は、その大学の学術ロジックを知っていると圧倒的に解答が容易になるタイプのものでしたので、半年の上智大学生活(残り半年は休学して受験勉強をしました)に助けられて、大学医学部の入学に至りました。
1つ目の学びを与えてくださったのは、クラスメートだったりもするけど、スキー部の先輩方がその中心でした。僕はずっとそう思っていました。懐かしい思い出で大事にしよう、とも思っていました。違う大学を卒業し、病院に勤め、さらには外国に居住を移した僕に、また会える機会などもうないのだろうなあ、と諦めていたのも事実です。2022年12月、あることで先輩方とまた会うことができました。そして今年の夏、また会えました。みんな全然お変わりなく、いつまでも私の人生の師匠でいてくださいます。さあ、何かこれについて書こうと思ったけど、今日は感極まってもう書けません。1983年に半年だけご一緒させていただいた方々と40年以上経って、大事な時、でもとっても楽しくリラックスできる時間を、をまたご一緒できるなんて。こうした出合いに、難しいことの多い人生ではありますが、とても勇気づけられています。





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